
隅田川を渡る橋の中で、浮世絵などにしばしば描かれているものと言えば、圧倒的に両国橋でしょう。両国橋より少しあとに
架けられた新大橋などは、浮世絵に登場する回数は、両国橋よりはずっと少ないようです。一体、その理由は何でしょう。単に、両国橋の方が先に作られたから
なのでしょうか。
浮世絵にしばしば描かれるということは、それだけ両国橋がポピュラーであったことを示していますが、単に早く架けられた、というだけでそれ
ほど人気に差が出るものでしょうか。
実は、江戸時代初期から中期にかけての、隅田川を渡る主な橋のうち、無料だったのは両国橋だけで、あとの橋は有料だったのです。ものによっ
て価値の変動があるので貨幣価値の相違は一概には言えませんが、この有料の橋の通行料は、庶民にとってはけっこうな値段だったようです。
両国橋が他の橋に比べて庶民にとって身近な存在だったのは、こんな理由かも知れません。
橋詰広場のことを調べていくと、わが国の場合、そのルーツは江
戸に行き着きます。
江戸は、初めはほとんど何もない寒村だったところ、神田川の開削、日比谷入江の埋立など、多くの土木工事を経て、ついには人口150万人の
当時世界最大の都市となった町です。
この世界一の都市・江戸には、川や運河などがたくさんあり、その結果、橋も多く掛けられました。中には、両国橋のように、当時としてはきわ
めて大規模な橋もありました。また、多摩川を渡る六郷橋のように、度重なる洪水に、とうとう橋を放棄して渡船に切り換えられたものもありました。
浮世絵や古文書、古地図などから読み取れる、橋詰や橋の上での人々の行動、橋詰にあった施設などを見ていくと、江戸の人
々が橋に対して抱いていた思いが伝わってきます。そして、人々の生活の中で、あるいは人々の心の中での橋の位置づけなども、想像できます。
これらのことを調べていくと、現代の橋詰広場はどうあるべきか、現代の橋梁景観の議論はどうあるべきか、そんなことに対
するヒントのようなものも見えかくれしてきそうです。
われわれ橋梁研究室は、「歴史に学ぶ」ことも重要だと考えます。
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